先代住職の孫として昭和四十二年に徳成寺に男の子が誕生します。
それが現在の住職である私、大山健児です。
女姉妹に囲まれた唯一人の男の子は、おじいさんの徳成寺を再び盛んにする期待を背負って大きくなります。後にお参りに行く先々の門徒さんが口をそろえておっしゃることには、先代住職の口癖は「孫が(寺を)継いでくれるまで頑張っています。楽しみにしています」でした。
先代住職は戦災のダメージと年を取っていたため衰えがちな気力や体力を「孫が跡を継いでくれる」という希望だけが支えだったのでしょう。
地元の高校を卒業した私は、慶応大学に進学しました。
東京で社会人生活を送る二番目の姉と二人で小さなアパートに住むことになりました。共同生活と言っても姉は毎晩残業というハードな生活、食事も別々のことが多く、普段はゆっくり話すこともできませんでした。 月に一度、姉が給料日に中華料理を食べに連れて行ってくれました。
今でも当時の姉の優しさは忘れることができません。勉強ばかりしていた田舎者であった私には、東京という大都会の中に自分の居場所を見つけることができませんでした。上京したばかりの頃は「五月病」のようになって、何に対しても無気力になり、孤独感に襲われたりもしました。
大学二年生の頃、浅草にお坊さんの専門学校が夜間開かれていたので、そこに一年間通って修行しました。
「昼間大学で夜はお坊さんの学校で、さぞ大変だったでしょう」と苦学したようによく言われるのですが、
大学の講義より仏教の勉強の方が楽しくて、どちらかというと、大学よりお坊さんの学校にいる時間の方が長くなっていきました。
その学校は、私のような大学生もいれば、主婦もいる、定年を迎えたおじいさんもいる、現役の会社員もいるということで、
今までの学校にはない独特な雰囲気がありました。狭い殻を脱ぎ捨て大きな世界に羽ばたいた気分でした。
その学校での先生や友達との出会いが今の私を作ったといっても過言ではありません。
素晴らしい恩師との出会い、仲間、友情の大切さ、そして親鸞聖人の教えの尊さと出会いました。
特に夜学だったこともあり、学校が終わって9時からの放課後、浅草の夜にお酒を飲みながらの課外授業が楽しみであり、勉強の場であったのです。
こうした人々の出会い・ふれあいが私をお寺を継ぐ決心をさせたのでした。
私が無事に慶応大学を卒業した平成二年に、先代住職が九十五歳でこの世を去り、右も左も訳が分からないまま、第十四世住職を継いだのでした。
先代の世話をしてくださっていた総代・役員さんもとっくに亡くなっていたり、年齢を取り過ぎていたりで、新しくどなたかにお願いするにしても誰に頼んでいいのか 分からない状態でした。
そんな私を助けてくれたのは、今の総代・役員を快く引き受けてくださった方々です。
そして、お参りを続けてくれる門徒さんのお陰です。
たとえば、私が東本願寺で住職になる時も、総代さんが高齢なのに一緒に2泊3日もの間、東本願寺に泊まり込みで研修を受けて下さいました。
また、滞っていた仏具のお磨き作業なども熱心に手伝って下さる方もいらっしゃいました。
最後に私と力を合わせて頑張っている家内と三人の子供達にも感謝しています。
こうした多くの方々のご恩に応えて、あそこに行けば、困ったことがあっても今まで知らなかった知恵を出してもらえたり、
あそこに行けば、何か面白いことをやっているのではないかと楽しみにされるような、そんな頼りになる徳成寺にして参りたいと思います。
みなさん、これからも宜しくお願いします。